現在の日本の五つの異次元な国情
その⑤ 異次元の「人間らしさ」(上)

2017.05.05

人間らしさの追求

異次元シリーズの最後に、「人間らしさ」をテーマに2回に分けて話したいと思います。
すべからく人々が人間らしく生きるということの実現が、政治の究極的課題と思います。
しかし一体、何が人間らしさなのでしょうか。
人間らしさの追求が、今の日本に大きく必要なのではないか、というお話です。

何が人間らしさなのかについて答えを出す試みは極めて無謀に思えますが、しかし、人間らしさの何たるかをたとえ漠然とでも把握していないと、人間らしい社会を実現することは叶わないのではないかと思いますので、今回は、私が思いつく限りの輪郭だけでも、述べさせて頂きたいと思います。
近代思想の整理の通り、人間には理性と本能があって、時々にどちらか、あるいは両方に支配されていると思えます。
理性のみを指して人間らしさと言うこともあれば、本能と理性のミックスを人間らしさと言うこともあり、時には、本能のみ指して人間らしさと言う人もいるかも知れません。
理性は、言い換えれば、正義、善、倫理、常識といった言葉に当てはまる言動を指すと思われます。いっぽう本能は、言い換えれば、動物的、生命の基本機能、暴力的、無分別、でしょうか。

理性的だから人間らしいとは限らない

洋の東西を問わず、古典的には、理性こそは人間らしさを司り、本能に従えば人間らしさを失う、という考え方が支配的であったと思われます。しかし、第二次世界大戦以降は、むしろ本能に従わなければ人間らしさを失うのではないかという思考も現れ、非倫理的・非論理的であるからこそ人間らしさを保てるという、いわゆるアングラ、サブカルチャー、ロックンロール的なる指向性の台頭も見られました。

科学の発達によって戦争が大量殺戮を行うようになり、メディアの発達によって理性のコントロールが効かない人間の姿を世界中が画像や映像で目の当たりにするようになり、人間の理性の脆弱性が容易に暴露されるようになったことがひとつの要因と思います。

ドイツで見られた民族差別による理不尽な虐殺、日本に落とされた原爆の非人道的な威力、その後は、ベトナム戦争や宗教テロの理性なき残忍さ。
どれも、理性の無残な敗北の現実であって、理性こそが人間を動物と異ならしめる堅牢な特質だとは誰も信じられなくなったのだと思います。

戦争とは別に、企業の公害問題もあります。人間の命より企業の利益を守るということが実在するという衝撃は、自己保身のみに走れば、企業活動は人間の倫理をも無視するという危うさを社会に問いかけると同時に、その企業活動というものは、現代の工業社会を生きるほぼすべての人間が逃れられない自らの営みだということに、人間が生きるということは理性の忘却に基づくしかないのかと、やるせなさと絶望感さえ感じさせる側面があります。

人間は悪から逃れられないのか

このような人間の歴史の残酷な一面を一部振り返るだけでも、人間というのは、いざとなれば極めて残忍なことが出来る「動物」なのであって、他の動物と比べ何も特別に高等な生物というわけではないと思わざるを得なくなります。
そして、人間の理性とは、おそらくは人間が生まれ持った極めて小さな天然資源から加工して作られた、ガラス細工のように壊れやすい「命綱」のようなものに過ぎないとも思えてきます。

理性が無ければ何をしでかすか分からない人間自身へのある種の恐怖感が、現代社会の倫理観、正義観、善の意識を後手で製造させ、あるいは古の格言を思い出させたりしているのかも知れません。本能にこそ人間の支配権があり、ときどき理性という命綱に救助されている、という状態が、結局は人間らしさと言えるのではないかとさえ、思えてきます。
もっと言えば、世間において、残忍だと思われる本能的な行動や言葉とは、それは残忍と言うべきでもなんでもなく、それが通常であると捉える感覚をこそ持つべきなのだ、という、本能主義とでも表現すべき思考が、現代社会に漂っている感もあります。さらに言えば、その本能主義は、一部人間社会が太古から変わらず維持してきた、基本的な自己保存の基本思想でさえあるかも知れません。
すなわち、「他者を騙し、殺し、奪うことで自己保存を行う事は、理性では悪と表現されるとしても、そんなことにかかずらわっていては生き延びることが出来ない。そしてその能力が無ければ、人間社会は維持できず、個体も残存を望めないのだから、生き延びたいなら、きれいごとを言うものではない。騙される方が悪く、人間は騙すものだ。」
おそらくどの時代も、こうしたセリフとともに本能主義は理性を追い込み、理性が駆逐されたプロトコルやアルゴリズムを社会に組み込み、理性が言うところの「悪」無しでは自己保存が出来ない状況を助長してきた、とも思えます。

資本主義は「嘘」のプロトコル

例を伴いますと、
私たち日本人や多くの欧米国家は資本主義社会で生きています。
この資本主義というプロトコルの手順に従うとき、実は私達は非倫理的であることから免れません。理性が言う非倫理的な「悪」なるものを一部是認しなければ、生存が適わない社会に私達は生きています。
どういうことかと言いますと、資本主義社会において、私達はたとえば、お客様に見積もりを提示するとき、原価に利益を乗せますが、果たしてどの程度まで利益の上乗せは許されるものなのでしょうか。
厳密に言えば、見積もりとして「これだけ我が社は必要です」と言う際、それは「嘘」だと言わねばなりません。最大利益を目指して価格を提示するのが企業活動であって、収支トントンの「真実の価格」を提示するだけならば、それは営利活動とはならないからです。収支トントンであれば、いわゆる社団法人等でも認められる非営利的な事業であり、資本家は、資本の増大につながらない事業なら投資は避けるでしょう。そうすると経営者は事業資金を失う危険に直面します。営利獲得による資本の増大を本旨とする資本主義の活動は、非倫理的な「嘘」を公明正大に許容しなければ、成立し得ない経済活動なのです。
利益という隠された「嘘」を許容してでも欲を満たす消費あるいは投資という支払いを実行させるよう、上手に顧客を騙す能力を必要とするのが、資本主義の基本設計ということです。

社会主義も嘘で成り立つ

いっぽう、社会主義は、社会(国家)全体として最大の富を獲得し、その後、富を平等に分配するプロトコルを謳っています。個人の利益より社会全体の利益を最初の手順にしますので、その実現手法(アルゴリズム)として、財産の国有化(私有財産を認めない)や、国家の計画的統制に基づく経済活動(これは日本でも見られます)、そして、個人の職業選択の自由や思想の自由に制限が加えられたりします。おおむね、個人の自由より国家の利益を優先する意図は全体主義と同根でありつつ、競争原理が生み出す理不尽な不平等を克服しようとするのが、いわゆる社会主義的なるもの、と言えます。
しかし社会主義の現実を見てみると、平等を本旨としつつ階級は残存し、下層階級の人々はどんなに努力を払っても報われない人生となります。昇進や成功といった働きがいを見出す事は困難となり、特定の人物や党におもねることが唯一の成功手段となっていきます。役人は賄賂によって腐敗し、働きがいを失くした労働者は規律や配慮を失って例えば農薬の大量使用、商品の劣悪な扱い等につながります。富の平等を目指しながら、富める者と貧しい者の格差は拡大して、理想とは程遠い社会が現出していきます。
この意味で、社会主義の場合は、富の平等化を目標に掲げながら、階級という不平等を大前提に社会を統治する意味において、統治者による被統治者への公明正大な「嘘」の介在が既にプロトコルに宿っており、やはり理性が言うところの「悪」を許容しなければ成立し得ない設計になっていると言うべきです。

理性と本能が合わさり「人間らしさ」となる

このように、現代社会思想を代表する二大主義においても、「嘘」「騙し」という理性的な倫理に反する行為の力を借りなければ成立し得ない中で、理性的な部分だけに人間らしさを照射すると、人間らしい暮らしが奪われていく危険が生まれます。嘘をつきたくない、と頑固に真実にこだわれば、社会のプロトコルから外れていくからです。
しかし、人間全員が平気で嘘をつくようになれば、当然ながら社会から安心感は失われていき、個人個人は嘘をつくことによって自己保存を図っているつもりでも、社会全体が騙し合い、規律が無力化されることで、さらに大きく巧妙な非倫理的な行為を必要とするか、あるいは社会の沈没と共に自己保存を諦める危険を生じることになります。
つまり、理性と本能はそれぞれ単体では自己保存を果たせず、常に寄りかかって絡み合わせることで、人間は自己保存を果たしてきたと考えるのが妥当に思えます。
問題は、理性のどの部分が、そして本能のどの部分が人間らしさの形成に有効なのか、という問いかけにどのように答えていくか、です。
これまでの人類の歴史のなかで、そして現代社会においても、理性の「騙すな、殺すな、奪うな」という極めて原始的な要求に対してすら、人間社会は誠実に応えることが出来ていないなかで、理性と本能をどのように整理すれば、人間らしい暮らしを政治が実現できるのか。
理性が人間にもたらす働きを考えながら、理性と本能の絡み合いが、どのように日本社会に関係してくるのかを、徐々に述べたいと思います。

幸せの椅子は無限にあるか

資本主義は、努力すれば誰もが幸せになれると謳います。
幸せの椅子は無限にあり、努力した人の分だけ椅子が用意されていると言います。
しかし、それは本当でしょうか?
また、社会主義は、幸せはみんなで作るものだと謳います。
幸せの椅子はみんなの分だけあらかじめ用意されていると言います。
それも本当でしょうか?
どちらも疑わしいと思えるのは、現実は「幸せの椅子には一部の人しか座っていないじゃないか」と誰もが思うからです。
幸せの椅子には一部の限られた人間しか座っておらず、その椅子に自分が座るためには、誰かから奪うしかない。幸せの椅子取りゲームが人の世の常だと、誰もが覚悟して生きている状況かと思います。

しかし、幸せの椅子に座る方法は、実はもう一つあります。
自分で森へ行って幸せの木を見つけ、切り、新しい椅子を自分で組み立てることです。自分以外の人も座れるよう、多数の椅子を作ることが出来ればなお素晴らしいですが、しかし、自分の椅子を作るだけでも難しいのに、人々のために椅子を多数製造出来る人物というのは、本当にごく一握りです。そしてその能力のある人物であっても、作る椅子には限りがあります。
率直に、椅子は無限ではなく、誰もが幸せになれるわけではない、というのが、一般の感覚に合致する認識ではないでしょうか。資本主義でも、社会主義でも、「こうすれば誰もが幸せになれるはず」という原理を組み立て、椅子は無限に用意されているという幻想をゴールに設定してプロトコルが作成され、私達はその永遠に辿り着かないであろうゴールに向かう手順だけを日々、実行しているということになります。

限られた椅子を取り合い(就職)、椅子が不足すれば新しく作る(起業)ことを奨励されるのは、バブル崩壊以降、我が国が長く歩んできた道でもあります。
私達は常に、幸せの椅子は限られているという現実を生き延びるため、椅子は無限にあるという信仰を信じ、それをより強く信じることが出来る政治や宗教、企業や集団に属そうとし、選択し、自分達の行う自己保存のための「悪」がより一層、肯定的に許容される社会に生きていこうと、日々模索しているのかも知れません。

荻原隆宏

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