現在の日本の五つの異次元な国情
その⑤ 異次元の「人間らしさ」(下)

2017.05.05

理性は死に向かう

このように考えると、人間とは、他人を騙して経済活動を行い、人間と同じ生命である生物を殺して食べ、他人から奪って自分の居場所を得ている救いようのない存在だと常に自責しながら、悪から逃れられない大変息苦しい生を生きなければならない様相となってきます。
理屈で突き詰めれば、植物すら食べてはならない、と制限されるような方向であって、生命の営みそのものが否定されかねません。生きること自体が罪悪感に満ちたものになってしまっては、生命にとってたいへん危険なことです。生きるためには、どこかでこのような罪悪感は払拭しなければなりません。
しかしその罪悪感こそが、理性の源泉でもあり、理性とは、突き詰めていくと、生命の営みを止めることも辞さない概念ではないか、という、一見矛盾した、受け入れ難くもある、しかし様々な社会的弊害から自由に解放された、実に広々とした人間らしさへの解答の平原に辿り着く自分が見えてきます。

理性という概念には様々な果実が含まれています。冒頭に書いたように正義や善、倫理や常識といった一定のカテゴリーは、漠然とはしているにせよ、人間の理性が生み出した良質な果実の代表格と言えるでしょう。このほかに、武士道や社訓といった、ある階層や集団に限った特定の規範意識も理性の果実として作成されることもあるでしょう。もちろん、国家の憲法や法律も同じです。

これらの理性の果実はときに、死を厭いません。最悪の場合、死を強要することすらあります。

哲学者ソクラテスは「悪法も法」と言い、自ら毒杯を仰ぎました。
仏僧には即身仏という、死に至るまで断食する修行法もあります。
死を以て信仰を証したキリシタン達の殉教の物語は壮絶を極めます。
また、第二次世界大戦中、処刑されることを知りながらも、ナチス親衛隊への入隊を拒否した人々も数多くいます。そのなかには年若い少年もいたとの記録があり、その処刑を待つ獄中の遺書も残されています。その少年が書いた母親宛の遺書にはこう書かれています。

「良心を汚すより死を選びます。」「僕の良心が挫けて(ナチス親衛隊に入隊し)戦場で殺されれば、それもお母さんを悲しませることになります。もっと多くの親が子供を失うことになるし、もっと多くの親衛隊員が殺されることにもなります。」

自己保存し、生き残ることだけが、人間の「正しい」選択肢ではないということを身を以て示す人々は、歴史にこうして語り継がれており、それらの事実は、理性の究極の結末と言うべきであることに、多くの異論はないと思います。

正しい故に命を落とし、悪く生きて助かることもある

しかし、この死へと向かう理性は、死へと向かうが故に、決して他人に強要されてはならないものです。
人間は正しく生きるが故に命を落とすことがあり、悪く生きることで命を長らえることもあります。悪く生きることを強要するのが非倫理的であるのと同じように、正しく生きることを強要することも非倫理的になる恐れがあることを考える必要があります。正しく生きれば自己の死に向かい、悪く生きれば他者の死に向かうからです。
自己保存を選び生き残るか、死を覚悟してでも正しいと信じる理性を選ぶかは、本人だけに許された決済事項です。

死に向かう理性を他人や為政者が強要しない社会を模索し成立させようとする過程が、今まさに私達が生きている、近代社会の矛盾を克服しようとしている世界ではないでしょうか。
ナチス親衛隊への入隊を拒み、強要されるわけでなく自ら処刑される道を選んだ少年の、自発的に崇高な理性を保持しようとする行為を、「行き過ぎた理性」と否定することは、あまりに忍びなく、適当ではないと思います。この場合は、処刑を行う為政者の判断を導くような理性をこそ、糾弾しなければなりません。

問題を困難なものにしているのは、人間はどちらの理性も持つことが出来る、ということです。強要する側(為政者や経営者)に立てば様々な理性を目的達成の手段として人々に強要し、強要される側(兵士や従業員)に立てば、少年が遺書に書いたように、抗っても従っても、いずれにしても死へと向かっていくことになるのです。

兵役は国家に強要される死への旅立ちです。死を恐れず戦う勇敢さが善とされます。特攻隊は確実な死を国家に強要された例として突出したものです。これもやはり、死を強要され実行する側は、理性の究極の姿と言うべきです。命をかけて国、仲間、家族を守ることを自ら進んで行った者が、理性に基づかない本能的で非倫理的で野蛮な人間だと、誰が言えるでしょうか。
そして、武士道という理性の果実を悪用し、弾丸という物質と同様同等に人間の命を軽く扱った為政者達は、それでも紛れもなく人間であり、その判断を促した「理性」とは、当事者能力が十分にあるなかでの判断であって、理性を失っていたという言い逃れは到底許されるものではない故に、「悪性な理性」としか位置付けようのないものと言うべきです。

「良性な理性」と「悪性な理性」

理性に本能が混ざると「悪性な理性」に変化するという考え方は、前提として本能を悪性に捉えすぎており、必ずしも妥当ではないと思います。理性が単独で悪性に働くということであるならば、むしろ理性には、善や正義などの「良性な理性」と、悪や破壊を導く「悪性な理性」の大別した2種があるということではないかと思います。

善や正義は、純度を高めれば高めるほど死を厭わなくなるため、善や正義に基づきつつ生き延びる(自己保存)ためには、食欲や性欲など動物的な本能を別の角度から肯定する必要が生じます。生命は生き延びようとする活動ですから、平時の暮らしのなかでは、理性と本能の適度な混合が、自己保存に適した人間らしさと捉えられると思います。

残虐な戦争を決行する為政者の場合は、生き延びる自己保存の指向性が理性に現れて、悪(騙す、殺す、奪う)や破壊を積極的に肯定する「悪性な理性」が判断主となってしまっていると捉えられます。いわば意図して悪を働き、自己に有利な状況をもたらす「悪知恵」です。

おそらくは本能にも「良性な本能」と「悪性な本能」があり、健全な食欲や健全な性欲などを司る「良性な本能」は、「良性な理性」と結びついて実に「人間らしい」環境を形成するのだろうと思います。反対に、利己が極大に増幅され混沌や無秩序を導くような本能は「悪性な本能」と言うべきで、「悪性な理性」は常にこの「悪性な本能」を言い訳にして悪や破壊を働く、ということかも知れません。

幸せの椅子取りゲームの中で、他者を犠牲にし、他者を痛めなければ自己保存が適わない人間の宿命的な動物性に対し、その動物性が人間をいかに獰猛でズルく人間らしからぬ行為に至らしめても、その動物性を動物性たらしめている本能をまるごと拒絶することは、命を守り生き延びることが出来ない状況を生み出し、むしろ人間らしさを失わせることにもなるのではないか、そして、理性を高純度化し実践すると、原理的には死に至るということを、現代社会はしっかりと捉える必要があるのではないかと思うのです。

人間が理性的に活動しつつ人間らしく健全に生命を維持するためには、良性な理性と良性な本能のコンビネーションが必要であり、かつ、権力者の悪性な理性の強要から堅固に守られている必要があります。

近代以降、現代にあっても、理性は万能無害とされ、100%人間に有益をもたらすものと信じられています。しかし、それが故に、いわゆる悪知恵というべき「悪性の理性」は、その理性への盤石の信頼を逆手に取り、人々に苦しみを強要しているケースが多々見られるのが、まさに人間社会の現実の姿なのではないかと思うのです。

理性は、人間が、悪や破壊をもたらす自己保存の負の部分を抑制するために、自己保存とは真逆の現象をもたらす能力を発達させたものであり、ときには個体を死に至らしめるような強力な概念をも生み出すものと、広く社会で認識を共有し、「悪性の理性」に抗体を持ち、その被害から身を守ることこそが、現代社会における人間らしい暮らしの実現につながっていくと思うのです。

過労や低賃金は、現代版特攻

私たちの日本は、過去に、武士道という理性の果実によって、切腹や特攻隊という苛烈な理性を強要してきた社会でもありました。
日本社会に今なお続く長時間労働や、低賃金の根源は、第二次世界大戦を通じて日本人が経験した苛烈な理性の負の連鎖ではないかと私は思うのです。

昨年、過労によって若い社員が自殺した巨大企業の社訓を読むと、戦時中の日本の苛烈な理性の焼写しのようにも思えました。とくに、「殺されても放すな、目的完遂までは」との訓示は、明らかに度を越した表現であり、戦場に散った戦友へのレクイエムのようにも聞こえます。創業者や経営者が心の中で自発的に自己啓発するに留まるなら、まだ社会的被害は生じないと思いますが、社員に強要するものとしては苛烈に過ぎるものです。この社訓は、事件後、社員手帳から姿を消したと報道されています。

理性の純度を高めると死に至ることが、現代社会においても実際に見られて、その理性を強要している事実が、椅子取りゲーム(自己保存:就職)の勝利者と言われる一流企業に見られている、ということですし、現在でも多くの経営者が、このような理性の強要を模範としていることと思われます。

私は、戦後の日本社会が積み重ねた高度経済成長は大いに尊敬に値するものと思っています。しかし一方で、敗戦によって世界に大きく自己否定された経験から、自己肯定をするために戦時中の一億一心・特攻精神は正しかったと証明したいがために、苛烈な労働条件を、戦場の兵士に命令するかの如く労働者に強いてきた側面があったのではないか、と問いたいのです。

そこには、自己保存は贅沢だと言わんばかりの苛烈ささえ漂っています。能力のない者は去れ、能力のない者に自己保存する資格はない、と。そのような自己保存の否定は、苛烈な理性の純化と強要の歴史がもたらした人間社会の大変残酷な側面であると思います。

その苛烈な理性の悪用が、現在の日本社会の課題である長時間労働や、低待遇の労働者が増え、格差が肯定され、貧困社会が蔓延した事につながっていると思うのです。
そしてここに、日本が長く経済的・物質的に豊かになっても、なぜか文化・精神的には欧米並みになかなか豊かになり切れないと言われる所以があると、私は思うのです。

理性や善は強要するものではない

一般的に理性や善というものは人生を良いものにしてくれると信じられています。
しかしそれはほぼ、錯覚に近いものがあります。
善というのは、利他の世界です。したがって自己保存には原理的に向きません。純度の高い善を実践すれば、むしろ理論的には自己は滅びるのです。
だからこそ、人々が苦しむほどの善は強要してはなりません。
また、そのような善は強要されたら拒否すべきものです。
現代社会において正義や善の信頼が低下したのは、為政者や集団が、正義や善を強要して人々を苦しめてきた歴史があるからです。
善は他者から強要されるものではなく、自ら選択して実行しなければ善たり得ないのです。自分で判断する能力を持つ重要さというのも、ここにあります。自己判断の能力を高めることが、善を社会に保つために人類に出来る唯一の方法なのです。
政治は、社会の法律を決定する重要な存在にも関わらず、敬遠され、関わりを持たないことが一般的に常識の範囲と思われていると思います。政党の勧誘があれば、相当身構えると思いますし、それが常識的でもあるとされます。宗教も、人間の生きる意味や心得を説く最高峰として位置付けられていますが、政治と同じように関わりを持つべきでない代表格と認識されています。

宗教や政治は、その自由が保障されるのが民主国家の原理でもあるほど大切とされるものですが、しかしこのように敬遠されるのはなぜでしょう?
それはやはり、政治や宗教には「人間はこうあるべきだ」という理性の強要があり、苛烈に強要されることも珍しくないことを歴史が示していることに一つ原因があるのではないかと思います。その理性の内容も根拠薄弱であることも少なくなく、むしろ欺瞞を感じる、と思うことのほうが多いのではないでしょうか。
キリシタンが拷問されたのも、ナチス親衛隊に入隊しなければ処刑されたのも、特攻隊が出撃したのも、苛烈な理性の強要に端を発しています。その苛烈な悪性の理性に抗い、善なる正しい良性の理性を貫こうとすれば、死は、加速度的に良性の理性を実践する全ての善人に迫ってきます。

理性は、本来的に、死に向かうものです。特に、純度の高い善や正義は、死に大変近い。
本来的に突き詰めれば死に向かう概念を、国家や宗教から押し付けられることに対する恐怖心が、政治や宗教、あるいは苛烈な社訓を強要し劣悪な労働を強いる企業から人々を遠ざけ、それらは結果的に、社会全体の停滞と沈下を招き、人間らしく生きることの難しい世の中を作り上げてしまうのではないかと思います。

人間は最後には死を迎える存在です。
死は真実であり、真実に従順な善や正義は常に人を死と向き合わせます。
死を迎えるとき、拷問や戦場の死ではなく、誰にも束縛・強要されない平穏で自由な死を迎えられることが、人間の素直に望む姿であるとすれば、人間らしさとは、政治や宗教や企業が求める「人間はこうあるべき」という強要性から常に解放されて、多様な価値観に身を浸し続けるところにあり、国民や従業員にその平穏を約束する自由を確実に保障する国家・集団こそ、真に人間らしい暮らしを実現出来る存在なのかもしれません。

荻原隆宏

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